中途半端な旅の記録とみのまわり

こちらにお引越しして間もないので、まだ新しい記録はまとめられていませんが、ゆっくり慣れていきます

五島列島 現代に生きる隠れキリシタン信仰・前編

今回キリシタン洞窟へ案内していただいた祥福丸船長の坂井さんに隠れキリシタンについての興味深いお話を聞かせていただくことができましたので、自分の忘備録としてまとめてみたいと思います。

とても浅い知識しかない私には言葉の意味がわからないことも多く、何度も聞き直して書き留めましたが、今後訂正しなければならないこともあるという前提でまとめています。

坂井さんのお住まいの地域は深浦という桐古里地区にある集落です。

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この場所に坂井さんの奥様の先祖である1組の夫婦が渡りついたのが、寛永3年のこと。1626年ということなので、今から390年も前のことになります。

夫婦は長崎の大村(長崎空港のあたり)から小さなボートでこの深浦へたどり着き、潜伏キリシタンとして集落を形成していくことになります。

このご夫婦の姓が深浦であったことから、この集落の地名がついたようです。



ここで潜伏キリシタン隠れキリシタンの違いについて、私が理解した範囲でまとめてみました。

一般的に隠れキリシタンというと、禁教期に仏教徒として振る舞いながらもキリスト教の信仰を捨てずにいた人たちを指して使われることが多く、私もそういう認識でした。しかし、この禁教期のキリスト教信者については潜伏キリシタンと呼ぶそうです。

禁教期は徳川家康の禁教令によってキリスト教が弾圧されたころから、じつに2世紀にわたりました。

この長い潜伏キリシタン時代、キリスト教信者であることを隠すがゆえに、独自の儀礼や祈りのスタイルを構築しました。

禁教が解けてもこのスタイルが一部で守られ、隠れキリシタンという独自の信仰となったわけです。

つまり、隠れキリシタンは乱暴な言い方をすれば分派の呼称のようなもので、その信仰やその信者を指して使われます。

現在でも信仰されている方に対しては、隠れキリシタンの末裔という呼び方は適切ではないかもしれないですね。

ですから、信仰の自由が認められている現在では潜伏キリシタンは存在しないのですが、隠れキリシタンの信仰は生きているということになります。

キリスト教信者であることを隠す必要がなくなってからは、カトリックへと戻る人達が多かったのですが、一方で隠れキリシタンの信仰を失いたくないと考える人達もいて、代々その信仰を守り続けて現在に至っています。


代々守られる祈りのかたち

現在でも桐古里地区には隠れキリシタンを信仰する家が30軒ほどあるそうです。

そのうち、深浦には6軒。そのほとんどが、坂井さんの奥様の先祖である深浦夫婦の子孫だそうです。

神父役である帳方の役目は、基本的には世襲制でした。

教会を持たない隠れキリシタンにとって、代々伝わるイエス像やロザリオ、信者にさえも公開しないマリア像を保管するのは帳方の役目であり、その役目が引き継がれると、それらはそっくりそのまま新しい帳方の家に移されるのだそうです。

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今回このイエス像やロザリオを拝見することができましたが、イエス像は髷を結っており、それがイエス様だとは言われなくてはわかりません。

同じく大事に保管されているもののなかに、バチカンローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が来日した際に、直接授かったというロザリオもありました。

バチカン隠れキリシタンの教徒について「古いキリスト教徒であり、キリスト教徒とみなさない理由はない」としていて、信教の自由を認めています。

これらの祈りの品々は、キリスト教徒でもない私からすると恐れ多すぎて、写真に収めさせていただくのは遠慮しました。

ほかにもオラショと呼ばれるラテン語の祈祷文が記されたものも拝見しました。まったく意味はわかりませんでしたが、ぎっしりと書かれたカタカナの文字に圧倒されました。


カクレの儀礼に見る禁教の面影

隠れキリシタンの信徒は、自らを「カクレ」と呼んでいます。

この項では、あえてこの呼称を使ってみます。

カクレの儀礼には仏教徒に見せるための先人の苦労が色濃く表れています。

例えば、お盆には13日に先祖を墓地に迎えに行き、15日に送って行きます。これは日本の迎え盆、送り盆のしきたりと結びついているのですね。

墓地に赴く前には仏壇に祈るのですが、これはもちろんイエス様に祈りを捧げています。カクレの家庭には仏壇が必ずあるそうです。

ほかにも初七日などの仏教と同じ儀式もカクレならではの方法で行われます。

このように、苦肉の策だった儀礼が、カクレとして伝えるべき儀礼になっています。

毎年10月28日にこの地域の山神神社でお祭りがあるのですが、この神社はカクレにとっての隠れ蓑であったので、今でもこのお祭りに合わせて特別の習慣があるそうです。

お祭りを司るのは神道の神主さまなのですが、その神主さまに差し上げるお膳に事前に祈りを捧げることによって、イエス様の祝福を受けた食事を神主さまに召し上がっていただくという解釈になるわけです。

もちろん神主さまはそれを知りません。現在では、山神神社自体がキリシタン神社の別名を持つほどなので、これらの習慣も暗黙の了解となっているのかもしれませんが、このお祭りの裏で行われる儀礼も現在に忠実に伝えられています。

このように、独自の祈りのスタイルを大切にしてきたカクレにとって、カトリックのスタイルに戻ることに抵抗を覚えるのも当然かもしれません。

今でも「なぜカトリックに戻ってこないのか」と聞かれることは珍しくないそうですが、祈りの対象は同じでも、まったく違うのだと言います。

特にカクレの方達は先祖との向き合い方が真摯です。苦難に見舞われながらもキリスト教の信仰を捨てなかった先祖への尊敬と畏敬が、敬虔さの源になっているように感じます。

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次回もあと少しだけ現代に生きる隠れキリシタン信仰について書き足したいと思います。

現在日本政府は、『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』として12の構成遺産をもって平成30年度の世界遺産登録を目指しています。

この世界遺産登録や観光との距離感についても坂井さんにお話をうかがいましたのでご紹介します。